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信仰箇条

信仰箇条

佐倉聖書バプテスト教会

序文

「バイブル・バプテスト」と呼ばれるわたしたちは、合理主義と偽りの超自然主義のはびこる現代において、わたしたち人間の思弁をはるかに超え、
なおそれ自信において首尾一貫している聖書の教理を、自分自身と人々との前に明示する必要を痛感し、以下の信仰箇条を告白する。
元来わたしたちは、「聖書が信条である」という伝統的立場に強い共感を覚え、固定化した成文の「信条」というものを持たない。
それゆえ、今ここに告白する信仰箇条は、聖書を離れてわたしたちを規定するものではない。 ましてや聖書を超えて立つものではない。
また、聖書に内包された豊かな富を、すべて汲みつくしている、というものでもない。
ただ、信仰の先輩たちが長い歴史の中で引き継いできたものを、わたしたちも引き継ぐ、ということを表明し、
それをわたしたちは共有していることを確認するものである。
ここには、全く新しい、というものはない。歴代のバプテストの信仰告白が、聖書の中からたずね出した宝を、今ここに、共に持っているということを、
わたしたちは喜ぶ。

1.聖書について

わたしたちはこう信じる。聖書66巻は昔の聖なる人々が聖霊に動かされて書いたものであり、
超自然的にまた逐語的に霊感された神のことばそのものである。
従って少しのあやまりもない真理であり、人類に対する神の意志の完全で最後的な唯一の啓示である。
またクリスチャンの一致の真の中心であり、人間すべての行為、思想また信条をためす最高の規範である。
かつてこのように霊感された書物はなく、この後もありえない。

2.神について

わたしたちはこう信じる。唯一の生きた真の神がいまし、この神の他に神はない。無限かつ聡明の霊、天地の創造者、最高の支配者である。
聖にいまして、表現しつくせない栄光があり、すべての名誉・信頼また愛を受けるにふさわしいおかたである。
ひとりなる神の中に父・子・聖霊の三位の神がいまし、それぞれ神としての完全性はひとしく、贖罪のみわざでは区分があり、
しかも調和のある職務をはたされる。

3.キリストについて

わたしたちはこう信じる。イエス・キリストは永遠のはじめから神であるが、聖霊により、処女マリアから奇蹟的に生まれたことによって完全な人となられた。
これまでどんな人も女からこのようにして生まれず、またこの後も生まれえない。
また彼は十字架上で死なれたが、3日目に肉体のままよみがえった。彼は神の王座の右に上げられ、彼のみが神のみ前にあわれみ深い大祭司である。

4.聖霊について

わたしたちはこう信じる。聖霊は一神格でいまし、父なる神、子なる神とひとしく、また同性質のおかたである。
創造においてはたらき、かつ不信の世との関係では 神の目的が達成されるまでサタンを抑制し、罪とさばきと義を悟らせ、
説教・あかしの中で福音の真理を立証される。
新生は聖霊のはたらきである。信者に証印を押し、力を着せ、みちびき、教え、あかしし、きよめ、また助けるおかたである。

5.悪魔すなわちサタンについて

わたしたちはこう信じる。サタンとはかつては聖なる者、天の栄誉を味わった者だが、全能者のごとくなりたいという高慢と野心のため堕落し、
一群の天使たちを引き従わせた者である。 今彼は空中の権をつかさどる邪悪な君主、この世の汚れた神である。
彼は人類の大誘惑者、神およびキリストの敵、聖徒を訴える者、あらゆる偽宗教の創始者、現在の背教のうしろにある主力、 反キリストの主、
すべて暗い力をうみだす者である。
しかし最後には神のみ子の手によって滅ぼされる運命をにない、彼とその使いたちとのため備えられた地獄で永遠の正義によるさばきを受ける。

6.創造について

わたしたちはこう信じる。はじめに神は天と地とそれに満ちるものを直接に創造され、御自身のかたちにしたがい神に似た者として人を創造された。
創世記にある創造の記事は寓意的あるいは比喩的にではなく、字義的に受けとるべきものであり、生物進化論を拒否する。

7.人類の堕落について

わたしたちはこう信じる。人は創造者によって、罪のない者に造られたが、故意の犯行によってその幸福な状態から堕落した。
その結果、罪は全人類に及んだ。いまや人は神の律法の要求する聖に全く欠けており、世とサタンと自己の罪深い欲情を満たすことに身をゆだねている。
そのようなわけで抗弁も弁明の余地もなく、正当な有罪宣告のもとにおかれている。

8.罪のあがないについて

わたしたちはこう信じる。罪人の救いはまったく恵みによる。それは神のみ子のとりなしのつとめをとおしてである。
彼はみ父の任命により罪のほかはわたしたちの性質をみずからすすんでとり、みずからの従順により神の律法に栄光を帰し、
その死によりわたしたちの罪のための十分なまた代償的あがないをなしとげられた。 それは殉教者としての模範をその死によって示すものではなく、
正しい者が正しくない者のために死に、ご自分の身にわたしたちの罪を負われるという罪人のための自発的な身代わりであった。
彼は死人の中からよみがえり、今天の王座に座しておられる。
またそのすばらしい人格の中に最もやさしい同情と神としての完全性とがむすび会い、あらゆる点でふさわしく、慈悲深く、まったく十分な救い主としての資格を持っておられる。

9.新生における恵みについて

わたしたちはこう信じる。罪人が救われるためには新生しなければならない。新生とはキリスト・イエスにあっての新しい創造である。
これは漸次的ではなく瞬間的なものである。この新生によって罪ととがの中に死んでいた者は神の性質にあずかるものとされ、
神の無代価の賜物である永遠の生命をあける。
新創造はわたしたちの理解をこえる方法で実現する。 これは教養によらず、品性によらず、人間の意志にもよらず、神の真理とともにはたらく全面的かつ一方的な聖霊の力による。
このようにしてわたしたちは福音に対して自発的に従うことができる。新生の証拠は悔い改めと信仰と生活の一新というきよい実によって知られる。

10.救いの自由性について

わたしたちは神の選びの恵みを信じる。救いの祝福は福音によりすべての人に自由に提供されている。
それゆえすべての人は心からの悔いと服従する信仰をもってこれを受け入れなければならない。
救いを受けそこなうのは地上最大の罪人であるからではなく、生来の腐敗性と福音を故意にこばむことによってである。
福音をこばむことはその人を恐ろしい宣告の中にとどめることになる。

11.義認について

わたしたちはこう信じる。キリストを信じる者に彼が保証する義認は大いなる祝福である。
義認は義の原理にもとづいてあたえられる罪のゆるしと永遠の生命の賜物とからなる。 これはわたしたちが行った何らかの義行を考慮してではなく、
もっぱらあがない主の血潮に対する信仰によってあたえられる。 彼の義がわたしたちに帰せられるからである。

12.悔い改めと信仰について

わたしたちはこう信じる。悔い改めと信仰はおごそかな義務である。 これはまた分離することのできない恵みである。
いのちを与える聖霊がわたしたちの魂の内にもたらすものである。
それによってわたしたちは自分の罪・危険・無力さとキリストによる救いの道について深く自覚し、いつわりのない悔い・告白・あわれみの嘆願をもって神に立ちかえり、 同時に心から主イエス・キリストを受け入れ、わたしたちのすべてをみたす唯一の救い主として公然と彼を言いあらわす。

13.聖徒の忍耐と保持について

わたしたちはこう信じる。終わりまで耐え忍ぶ者だけがまことの信者である。
忍耐をもってキリストに従いぬくことは、うわべだけの告白者と区別する大きなしるしである。
神は特別な摂理によってこのような人の幸福を見守られる。このようにして彼らは信仰によって神の力に守られ、永遠の救いにいたる。

14.教会について

わたしたちはこう信じる。教会とは福音の信仰と交わりを内容とする契約によってむすばれ、バプテスマを受けた信者たちの1つの会衆を指す。
その教会は神による永遠の恵みの伝播者であり砦である。
それはキリストの礼典を守り、神の律法によって支配され、みことばによってあたえられた 賜物・権利・特権を享受するものである。
按手礼を受けるべき職務は牧師(長老・監督)および執事である。 その資格と義務については聖書に明らかに定義されている。
わたしたちは、教会の真の使命「大命令」の中にあると信じる。
第一、個々の弟子をつくること、第二、教会を建設すること、第三、主が命じられたように教えをさとすこと。
わたしたちはこの順序の逆になることを信じない。私たちは主張する。地方教会には自治の絶対権があり、個人・団体を問わず、いわゆる聖職制度から干渉を受けない。
キリストだけが聖霊をとおして監督されるのである。 真の教会が信仰と福音の進展のため積極的に互いに協力することは聖書にかなうことである。
この協力の範囲また方法についての唯一の判断は各教会にある。
その地方教会の意志こそ教会員に関すること・方針・政策・訓戒・慈善などあらゆる事柄について最後的に決定するものである。

15.バプテスマと主の晩餐について

わたしたちはこう信じる。バプテスマは信者の全浸礼である。これは父と子と聖霊の名によって行われ、地方教会の権威のもとにある。
これは十字架にかかり、葬られ、よみがえられた救い主に対するわたしたちの信仰が、罪に対するわたしたちの死と新しき生命への復活という効果をもたらす、一つのおごそかで美しい象徴である。
これは教会員としての特権や主の晩餐につらなることの先行条件である。
主の晩餐において教会員は常にあらかじめみずからを反省してパンとぶどう液とをきよく用いることにより、
死をもって示されたキリストの愛を共に記念すべきである。

16.世界宣教について

わたしたちはこう信じる。全世界に福音を伝えよとの命令は明らかで、まちがってとらえられないものである。この命令は各教会にあたえられたものである。

17.ささげる恵みについて

わたしたちはこう信じる。献金は神からあたえられた恵みであり、信仰の基礎の一つである。
十分の一献金については、それは律法があたえられるより 4百年も前に行われていた定めである。
又これは律法の中にも組み入れられ、主イエスもこれを保証された。新約の時代においては、これは教会の会計へ携えるようにと定められている。

18.国の政府について

わたしたちはこう信じる。国の政府は人間社会の利益と秩序とのために神が定められたものである。
ゆえに為政者のために祈るべきであり、また誠実をもって彼らに従うべきである。
ただし、わたしたちの主イエス・キリストのみ心に反することは別である。
このおかたは良心の唯一の主であり、やがて地の王たちの君主として来臨される。

19.義人と悪人について

わたしたちはこう信じる。義人と悪人との間には根本的に本質的に相違がある。
神の評価からすれば、信仰により主イエスのみ名によって義とされ、聖霊によってきよめられた人だけが真に義人である。
他方悔い改めず、不信仰のままどどまる人はすべて神のみ前に悪人であり、のろいのもとにある者と見られる。
人間の間のこの区別は死の場合も死の後も保たれて、救われた人は永遠の幸福に、失われた人は意識をもったまま永遠の苦悩にいたる。

20.キリストの再臨およびそれに関するできごとについて

わたしたちはこう信じる。キリストみずから肉体のまま目に見える形で再臨される。
その時にはキリストにある死人がまずよみがえり、 生きている聖徒たちは終わりのラッパの響きとともにただちに栄光の体に変えられる。
こうしてキリストはその父ダビデの位を回復し、すべての敵をその足もとにおかれるまで義をもって千年の間世界を治められる。

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